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神武天皇聖蹟 菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

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奈良県下には神武天皇ゆかりの地として神武天皇聖蹟顕彰碑が建てられた場所が7カ所あります。

WEBページ神武天皇聖蹟顕彰碑の所在地一覧によれば、

神武天皇東征の聖蹟を顕彰するために建てられた顕彰碑は、大分・福岡・広島・岡山・大阪・和歌山・奈良の府県に点在します。
聖蹟顕彰碑は、紀元二千六百年奉祝の事業として、「紀元二千六百年奉祝会」が文部省へ委嘱し、「神武天皇聖蹟調査委員会」による推考・答申にもとづいて、すでに明白であった橿原宮・竈山の聖蹟以外の地、計19個所の聖蹟が選定され、花崗岩製の同一規格・設計により、総工費25万円により、聖蹟所在地の府県に依頼して建設・施工された


とあります。



もう1年近く前になりますが…奈良ブログ「どっぷり!奈良漬」でおなじみの鉃田さん達が企画された『古事記1300年記念ツアー 「バスで巡る!神武天皇の聖蹟」(第9回古社寺を歩こう会)』に参加させて頂き、県下の神武天皇ゆかりの地(7か所)すべてをバスで巡りました!

…まさにこれは神武以来(!?)の超贅沢なツアーでございました(^△^)/

神武天皇
▲神武の東征(月岡芳年「大日本名将鑑」)

最近古事記にハマり出したということもあり、今回はこの時訪ねた顕彰碑の紹介をしつつ、その土地にまつわる古事記のお話などをまとめて自分の勉強も兼ねながら記事を書いていきたいなと思っています。


ちなみに、この日訪れた場所は以下の通りです。(鉃田さんのブログより)

菟田穿邑(うだのうかちのむら) 宇陀市菟田野区宇賀志
菟田高倉山(うだのたかくらやま)  宇陀市大宇陀区守道高倉山頂
丹生川上(にふのかわかみ)   東吉野村(丹生川上神社中社摂社 丹生神社北側)
鵄邑(とびのむら)       生駒市上町 出垣内バス停東南の丘
磐余邑(いわれのむら)     桜井市吉備(春日神社の北側)
鳥見山中霊畤
(とみやまなかのまつりのにわ)
  桜井市(等弥神社の南側)
狭井河之上(さいがわのほとり) 桜井市茅原(狭井神社の北)



本題に入る前に、まずは『古事記』と『日本書紀』ついて簡単におさらいしておきたいと思います。(以下、とても説明が分かりやすかった「うだ記紀・万葉」のページから引用させて頂きます)

■『古事記』とは■

現存する最古の書物です。
天武天皇が『帝紀(ていき)』(皇室の記録)と『旧辞(きゅうじ)』(神話・伝承・歌謡)を研究して、正しいことを後世に伝えるよう命じ、これをもって編さん事業が始まったと『古事記』には、記されています。
稗田阿礼(ひえだのあれ)が語り伝えたものを太安万侶(おおのやすまろ)がまとめ、和銅5年(712)に完成しました。
『古事記』は、3巻で構成され、上巻は天地のはじめから天孫降臨前後の神々の物語、中巻は神武天皇から応神天皇までの英雄伝説、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの物語となっています。
中巻の神武天皇の段で宇陀の地が多く登場します。



■『日本書紀』とは■

最初につくられた勅撰(ちょくせん、天皇の命令により撰ばれた)の歴史書で、養老4年(720)に完成しました。
『日本書紀』天武天皇10年(681)3月17日条に、天武天皇が川嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子ら12人に『帝紀(ていき)』(皇室の記録)と『上古諸事』(古い諸記録)の史実を確定して記録するように命じたことに始まるとあります。
『日本書紀』は、神代から持統天皇11年(697)までの記事からなり、本文30巻、系図1巻で構成されています。このうち、系図については、現存していません。
『日本書紀』の編纂にあたっては、『帝紀』・『旧辞(きゅうじ)』、諸氏族の記録、中国の歴史書、朝鮮の関係記録などが参考にされています。記事には漢籍による修飾もありますが、7世紀までの日本古代史の基本的な文献史料となっています。

神武天皇ゆかりの地と言えば、神武東征についての知識もまずは頭の中に入れておかなければなりませんが、書き出すと長くなるのでwikipediaより引用してざっくり説明すると…

神武東征(じんむとうせい)は、日本神話において、初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話。

つまりは神武東征とは、神武天皇が東(大和)を征服していくお話です。
(本当にざっくりすぎてすみません^^;)


宇陀へ入るまでの神武東征のお話は以下の通り。(「うだ記紀・万葉」のページから引用)

■神武天皇宇陀へ■

日向(現在の宮崎県)から大和に攻め込む際、瀬戸内海を通過し、大阪の難波津へ軍船を進めました。難波津へ軍船を進めた神武天皇らは、生駒山を越えて大和に攻め込みましたが、長髄彦の反撃を受けました。形勢が不利とみた神武天皇は、原因を自分達が太陽のある東へ向いて攻撃しているためと考え、一旦、退却することとなりました。

退却した神武天皇らは、南下し、紀伊半島を迂回して、熊野に上陸するという作戦に変更しました。この後、神武天皇らは、天照大神(『古事記』では高木大神)によって派遣された八咫烏の導きによって、道に迷うことなく、吉野を経て宇陀へと至ります。吉野川の河尻(五條市)に達した後、阿陀(五條市)、吉野、国栖(くず、吉野町)を経て、小(おむら、東吉野村)から鷲家川をさかのぼり佐倉峠を越え、宇陀へと入りました。

『古事記』では、「踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき」、『日本書紀』では、「遂に菟田下県に達る。因りて其の至りましし処を号けて、菟田の穿邑と曰う。」とあり、まず、菟田下県(うだのしもつあがた)の穿邑(うかちむら)というところに着いたことがわかります。

神武天皇が到着した穿邑の「穿(うかち)」は、現在の地名「宇賀志(うかし)」の由来となっているそうです。

宇賀志地区体育館の横の道を上がると「穿邑伝承地記念碑」の案内標識があります。
神武天皇の聖蹟 鵄邑(とびむら)顕彰碑

その標識に従い、小高い丘を登っていくと…
神武天皇聖蹟 菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

「神武天皇聖蹟 菟田穿邑顕彰碑」があります。
神武天皇聖蹟 菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

顕彰碑の裏面には以下の文字が記されています。
神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)頭八咫烏(やたがらす)ノ郷導(きょうどう)二依リ道臣命(みちのおみのみこと)ヲ皇軍ノ将トシテ菟田穿邑二至リ給エリ聖蹟ハ此ノ地方ナルベシ

ちなみに道臣命とは、神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた人物です。
八咫烏の先導により久米部を率いて菟田(宇陀)への道を開いた道臣命。彼らの導きにより吉野から宇陀へと到着した際に神武天皇が降り立った場所がこの地ということでしょうか。

神武天皇聖蹟 菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

ここ菟田の穿邑にはその昔エウカシオトウカシという豪族がおり、兄のエウカシは日向から東征にやってきた神武天皇に逆らい亡くなってしまいますが、弟のオトウカシは神武天皇に従い、やがて菟田県主となりました。

(申し訳ないくらい)かな〜り簡潔に書きましたが…この話については様々なドラマがあり、今回は書ききれないので、実際の伝承地をまわってからまた改めて記事に書きたいと思っています。



今回参考にさせて頂いた動画です。とても分かりやすくてオススメです!

「古事記」「日本書紀」「万葉集」と宇陀市 第1回


「古事記」「日本書紀」「万葉集」と宇陀市 第2回



神武天皇聖蹟菟田穿邑顕彰碑の周辺地図
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