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花札<鹿と紅葉>取り合わせの由来は?「伝説三作石子詰之旧跡」(奈良市)

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花札で、鹿といえば紅葉ですが…鹿と紅葉の取り合わせは一体どこから生まれたのでしょうか?
今回は奈良の鹿にまつわる親子の悲しいお話について書きたいと思います。

三作石子詰 興福寺 菩提院大御堂

春日大社の鳥居へ向かう途中の道沿いに「傳説三作石子詰之旧跡」と書かれた木標が建っている場所があるのですが、皆様ご存知でしょうか?ここは興福寺の菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)という場所の入口です。
興福寺の五重塔から南の階段を降りて東へ少し進んだところにあります。(地図はこちら→

▼近くに建っていた案内板。
三作石子詰 興福寺 菩提院大御堂

菩提院大御堂(通称、十三鐘)

 本院はふつう、奈良時代の高僧玄昉僧正(?~七四六)の創建と伝えられるが、実際はむしろ、玄昉の菩提を弔う一院として造営されたものであろう。本尊は阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)で、別に児観音立像が安置される。 鐘楼に掛かる梵鐘は永享八年(一四三六)の鋳造で、かつて昼夜十二時(一時は今の二時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ツと六ツの間)にも打鐘されたところから、当院は「十三鐘」の通称でも親しまれている。
 なお、大御堂前庭には、春日神鹿をあやまって殺傷した少年三作を石子詰の刑に処したと伝承される塚がある。元禄時代、近松門左衛門がこの伝説に取材して、浄瑠璃「十三鐘」を草したことは有名である。

法相宗大本山 興福寺



菩提院大御堂は「十三鐘(じゅうさんかね)」という通称で親しまれている場所で、近松門左衛門の浄瑠璃「十三鐘」でも有名です。以下、浄瑠璃「十三鐘」の歌詞です。

昨日は 今日の一昔 憂き物語と 奈良の里
この世を早く猿沢の [合] 水の泡とや消え果ててゆく
後に残りし その親の身は 逆様なりし 手向山
紅葉踏み分け 小牡鹿の 帰ろ鳴けど 帰らぬは
死出の山路に 迷ひ子の 敵は鹿の巻筆に
ヨ、 せめて回向を 受けよかし
サェ頃は 弥生の末っ方 よしなき鹿を過ちて
所の法に行はれヨ 蕾を散らす仇嵐
サェ野辺の 草葉に置く白露の もろき命ぞ はかなけれ
[合] 父は身も世も あられうものか。
せめて我が子の 菩提のためと 子ゆゑの闇に かき曇る
合] 心は真如の 撞鐘を
一つ撞いては 独り涙の 雨やさめ 二つ撞いては 再び我が子を
三つ見たやと 四つ夜毎に泣き明かす [合]
五つ命を代へてやりたや 六つ報いは何の鋲めぞ
七つ涙に 八つ九つ 心も乱れ
[合]
問ふも語るも 恋し懐し 我が子の年は
十一 十二 十三鐘の 鐘の響きを 聞く人毎に
可愛い 可愛い 可愛いと 共泣きに 泣くは 冥土の鳥かえ


「十三鐘」は、奈艮で明けの七ツと六ツの間についた鐘のことです。この十三鐘が撞かれる時刻に、三作という少年が鹿殺しの罪で石子詰の刑を受ける事になりました。刑の執行を告げるその鐘を音を聞く母親の嘆きを歌ったものが、浄瑠璃「十三鐘」です。

▼入口付近から撮影。鐘楼に掛かる梵鐘は永享八年(1436年)に鋳造されたものだという。
三作石子詰 興福寺 菩提院大御堂

境内に設置された案内板には石子詰について更に詳しい説明文が書かれています。

興福寺十三鐘傳説石子詰について

ある日、興福寺の小僧さん達が大勢この堂で習字の勉強をしていた処、一匹の鹿が庭へ入り小僧さん達の書いた紙をくわえたところ、その小僧の一人、三作が、習字中に使用していた、(けさん=文鎮)を鹿に向かって投げました。ところがこの一投の文鎮は鹿の急所に命中し、鹿はその場にて倒死しました。当時、春日大社の鹿は神鹿とされ「鹿を殺した者には石詰の刑に処す」との掟があった為、鹿を殺した三作小僧は子供と云えども許されることなく、三作小僧の年、十三歳にちなんだ一丈三尺の井戸を掘り、三作と死んだ鹿を抱かせて井戸の内に入れ、石と瓦で生き埋めになりました。三作は早くに父親に死別し、母一人、子一人のあいだがら、この日より母「おみよ」さんは、三作の霊をとむらう為、明けの七つ(午前四時)暮れの六つ(午後六時)に鐘をついて供養に努めましたところ、四十九日目にお墓の上に観音様がお立ちになられました。その観音様は現在大御堂内に稚児観世音として安置されています。子を思う母の一念せめて私が生きているあいだは線香の一本も供えることが出来るが、私がこの世を去れば三作は鹿殺しの罪人として誰一人香華を供えて下さる方はないと思い、おみよさんは紅葉の木を植えました。当世いづこの地へいっても「鹿に紅葉」の絵がありますのも石子詰の悲しくも美しい親子愛によって、この地より発せられたものであります。又奈良の早起は、昔から有名で自分の家の所で鹿が死んでおれば前述のようなことになるので競争したと云われます。今でも早起の習慣が残っています。同境内地に石亀がありますのは「三作の生前は余りにも短命で可哀想であった次に生まれる時には亀のように長生きできるように」との願いにより、その上に五重の供養搭を建てられたものであります。南側の大木は銀杏とけやきの未生の木ですが、母親が三作を抱きかかえている様であると云われています。何時の世にも親の思う心は一つ、こうして、三作石子詰の話が、今もこのお寺に伝わっているのです。


▼境内の一番奥に三作の供養塔があります。
三作石子詰 興福寺 菩提院大御堂

お堂で習字の練習をしていた三作は、紙を食べようとした鹿を追い払おうと(脅かすつもりで)近くにあった文鎮を投げます。その文鎮が運悪く鹿の急所に当たってしまい、鹿は死んでしまいました。
当時の鹿は神の遣いの神鹿とされ、鹿を殺せば死罪となる時代でした。まだ子供だった三作も例外ではなく、鹿殺しの罪で石子詰の刑に処される事となります。
三作は当時の年齢(13歳)にちなんだ一丈三尺の井戸に死んだ鹿と共に入れられ、十三鐘の鐘が鳴る時刻に石と瓦で生き埋めにされてしまいました。
三作の死を悲しんだ母は供養の為に三作が石子詰にされたすぐ側に紅葉の木を植えました。

▼供養塔のすぐ脇には実際に紅葉が植えられています。
三作石子詰 興福寺 菩提院大御堂

供養塔の下にの石像が使われているのは、あまりにも短命で亡くなった三作が次に生まれ変わる時には亀のように長生きするようにとの願いが込められているそうです。


鹿殺しの罪で、鹿と一緒に生き埋めにされた息子の霊を供養する為に、母が紅葉の木を植えた。
この伝説が花札などでおなじみの「鹿と紅葉」の取り合わせの元となっています。
「鹿と紅葉」と言えば広島の鹿を連想していまいますが…、奈良の悲しい伝説が由来となっているようです。

花札 鹿 紅葉

ちなみに、無視するという意味のシカトは、花札の十月の絵柄「鹿の十(しかのとお)」が略された言葉です。
十月の札の鹿は横を向いた絵柄であるため、そっぽを向くことや無視することを「シカトする」と言うようになりました。
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2 Comments

says..."管理人のみ閲覧できます"
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015.08.01 12:27 | | # [edit]
ヨシノ says..."Re: 三作の悲しい物語"
●Yさんへ●

大変丁寧なコメントを頂きましてありがとうございます。

当ブログ記事へのリンクは全く問題ありませんので、ご自由にどうぞでございます(^▽^)♪
Yさんのブログ記事も読ませて頂きますね〜。
2015.08.02 10:31 | URL | #Q1dH3vdw [edit]

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