まいにち奈良づけ♪

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「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 その②(明治谷墓地〜上出垣内)

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「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 その①(ニホンオオカミの像〜東吉野村役場)」の続きです。

ですが、記事を書く前に少し別の話を(>△<)!
原因は不明なのですが、今月15日辺りから当ブログの記事がgoogleにインデックスされない状態となっております。インデックスされないとは…つまりgoogleでネット検索しても、私が15日以降に書いた記事はヒットしない状態になっているという事です。「天誅組 まほろぐ」と検索してもこの記事はヒットしないのです(泣)
…という訳で。現在は私のブログアドレスを知っている方か、他の記事(もしくはtwitterなどのリンク)からここに辿り着いた方しかこのページを見ていない事になります。
他のFC2ブログのユーザーの方にも同じ症状が出ているようなので、FC2側の問題なのかもしれません;早い復旧を祈るばかりです><

9人の天誅義士が眠る「明治谷墓地」


第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

と。話をツアーの内容に戻しまして…
今回はバスツアーの行程順通り、明治谷(みょうじだに)墓地から記事をスタートします!

第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

記事のタイトルにもありますように、東吉野村は天誅組終焉の地です。明治谷墓地は三総裁の一人、吉村寅太郎をはじめ、この地で命を落とした天誅組の志士達が眠る共同墓地です。

第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

▼苔むした石段を少し登ったところに墓地があります。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

前日に降った雨が影響しているのか?滑りやすくなっている場所なので…実際に行かれる方は足下にご注意を!

▼お墓の前に到着。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

このお墓に眠っているの天誅義士は…
吉村寅太郎那須信吾宍戸弥四郎鍋島米之助林豹吉郎植村定七(上村貞心)山下佐吉(安田鉄蔵)天保高殿西田仁兵衛9名です。
※()内の名前は本名です。家族に迷惑をかけないようにと、天誅組に参加する際に偽名を使っていた人もいたそです。

ツアーで頂いた資料の明治谷墓地の項目には以下のように書かれていました。

鷲家口の戦いにより、亡くなった彦根藩士二人は宝泉寺境内に埋葬され、那須信吾らの遺骸は、鷲家口村のはずれ明治谷(小字名)に埋葬された。そして、5年後に明治維新を迎えることになり、新しい世の中をつくるため、初めて倒幕の兵を挙げた彼らは、奇しくも「明治」という元号とかかわりのある「明治谷墓地」で永遠の眠りにつくことになったのである。

明治維新の魁となった彼らの眠る土地の名前が、明治谷。何だか不思議なものを感じますね。

▼山の斜面を整備して墓地が作られたそうです。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

上の写真に写っている、郷土史家の阪本基義さん(同村教育委員会教育長)がこの墓地に眠っている天誅義士について、一人一人丁寧に解説してくださいました。

第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

▼一番右端のお墓は、天誅組で一番人気がある(?)という吉村寅太郎のものです。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

寅太郎は土佐の出身で、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市端山と共に土佐勤王党四天王の一人です。27歳の時に東吉野村で戦死していますが…本当に早すぎる死ですね。

▼表に見えているお墓の裏側には旧墓碑があります。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

一番手前に見えているのは那須信吾の旧墓碑です。
資料には墓碑の建立について、以下のように書かれています。

 文久3年(1863)冬、鷲家口村(東吉野村大字小川)有志の又助(山本)、宇吉(杉本)、善助(西林)、辯蔵(植平)、弥八(辰巳)、幸助(西林)、清太郎(龍屋)の周旋により、明治谷墓地に吉村寅太郎、那須信吾、宍戸弥四郎、吉田八十助(鍋島米之助)、林豹吉郎、植村定七、山下佐吉の墓碑を建碑した。その費用は、墓参に訪れた人たちの賽銭をもってあてられた。

また、「天誅吉村大神儀」の項目には

 これ以前の話であるが、産後の肥立ちが悪かった鷲家の住屋兵吉の娘おかつが、石ノ本(鷲家)に埋葬された吉村虎太郎の墓に三度詣ったところ快復したという。この噂が広まり、寅太郎の墓には、大和・河内・和泉・伊賀などから多くの人が参詣するようになった。
 そして、前述のように、鷲家口村の有志7人が、石ノ本に埋葬された寅太郎の遺骨を明治谷墓地に改葬し、墓碑を立て、位牌を宝泉寺に安置して法要をしたので、ますます参詣人が増えたのである。
 元治元年(1864)12月28日、この噂を聞き付けた五條代官中村勘兵衛が、吉村寅太郎の墓碑を川に捨て、墓碑を建立した7人を逮捕し35日間余り五條代官所に拘留した。


とあります。天誅組は五條代官所を襲い代官鈴木源内を殺害しているので、その中の一人の吉村寅太郎を参詣するという行為は、当時の五條代官にとっては許されることではなかったのでしょう。

▼吉村寅太郎の旧墓碑は新しく建てられた墓碑に並んで、手前に置かれていました。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

▼寅太郎の旧墓の隣には「天仲吉村市之神」と書かれた建碑年不詳の墓碑があります。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

建碑者不明の墓碑ですが、碑の下部には「吉村内分」と刻まれています。吉村寅太郎の妻が世を憚って変名彫刻したものであろうと伝えられていますが…ガイドの阪本さんは別の女性が建碑したとする説を支持するとの事でした。(寅太郎の妻が彼の死後別の家に嫁いでいる為です。)

明治22年(1889)には、那須信吾の息子、那須重宗が墓参に訪れ、信吾の墓碑を建碑しています。そして、明治27年、墓碑が新しく建碑され、大正元年に、石柵が設置されました。

▼墓地の奥に旧道があるのが見えます。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

▼墓地から下の方を見下ろすとこんな感じです。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 明治谷墓地

明治谷墓地を出ると、川の向こう側に上出垣内の集落が見えます


▼上出垣内の集落。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

中央付近に見える坂道が彼らが通った道だということです。

▼近くの案内板。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

天誅組史跡

文久三年旧九月二十四日夕暮時、那須信吾を隊長とする天誅組の前勢六名は、足ノ郷道三畝峠近くの山の神の祠の附近より上出垣内に下り此の下の橋を渡って宝泉寺前を過ぎ出店坂を駆け下って彦根藩を急襲しました。
之は敵の虚をつく見事な奇襲作戦でありました。


第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 その③(天誅義士記念の碑〜鷲家口)」へ続きます!!
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