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「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 その③(天誅義士記念の碑〜鷲家口)

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「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 その②(明治谷墓地〜上出垣内)」の続きです。

前回の更新から間が空いてしまいましたが…^^;天誅組ツアーの続きです!
明治谷墓地をあとにして次に向かったのは、天誅義士記念の碑がある広場です。

東吉野村で最期をとげた志士の事蹟を伝える記念碑です


第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

◆ 天誅義士記念の碑 ◆(ツアーで頂いた資料より)

 「天誅義士記念」の文字は、大正2年に土方久元が揮毫したものである。しかし、寄付金を募って記念碑の建立や墓地の整備を行ったため、建立までに歳月を要し、記念碑の除幕式は、大正9年11月5日に行われている。


文字を揮毫した土方久元は、土佐藩。土佐勤王党に加盟しており、薩長同盟にも尽力した人物です。維新後は東京府判事等を経て太政官に出仕。以後、宮内小輔、宮中顧問官等を歴任。その後、農商務大臣や國學院大学長なども努めています。

▼郷土史家の阪本さんが天誅組の通ってきた道のりについて説明して下さっています。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

ここで、決死隊の進路についての記述を資料より転載しておきたいと思います。これからツアーで訪ねる場所がいくつか出てくるので、事前学習も兼ねて^^

◆ 決死隊の進路 ◆(ツアーで頂いた資料より)

 地形から考えると、那須信吾以下決死隊の面々の進路は、やはり吉村が乗物もろとも放棄されたという山の神付近を北に下り、少し西して、高見川を渡り、北岸旧道を伝うて鷲家口に入り、宝泉寺前に出て、出店坂を下ったものと思われる。
(久保田辰彦著『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』昭和6年10月15日大阪毎日新聞社発行)

 小村(おむら)と鷲家口村の村境、三畝(みうね)峠の四ツ辻を鷲家口方面に下ると山の神の祠がある。その少し手前に、鷲家口の上出垣内(かみでがいと)に出る道があり、那須信吾ら決死隊の6人は、この道をかけくだったという。


▼上出垣内の集落。(中央にあるのが決死隊が駆け下ったという道だという)
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

 山道を下ると、途中に数件の家がある。立住一雄宅の前を通って、少し進むと桜の大樹(樹齢約300年といわれている。)があり、そこを過ぎると上出垣内の集落の上方に出る。その辺りからは、対岸にある宝泉寺が眺望できる。坂を下って、小川(高見川の旧名)に架かっていた上出橋を渡り、宝泉寺に出て、出店坂をかけくだり、彼らは、彦根藩脇本陣「碇屋」めがけて斬り込んでいったのである。

ツアーの一行は宝泉寺前を通って、出店坂〜碇屋へと向かいます!
決死隊の面々が彦根藩の脇本陣がある「碇屋」をめがけて斬り込んでいった道を実際に歩いていきます。

天誅組志士・彦根藩士の菩提寺「宝泉寺」


ツアーでは前を通るだけで、訪れることはなかった「宝泉寺(ほうせんじ)」ですが、天誅組志士・彦根藩士の菩提寺ということで…ここでも資料の記述を転載しておきたいと思います。

第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

◆ 宝泉寺 ◆(ツアーで頂いた資料より)

 興聖寺(こうしょうじ)5世の万安英種(ばんなんえいしゅ)がこの地を訪れて、人々を教化して一宇の庵を結んだのが寺のはじまりという。万安和尚の夢の中に山神があらわれて浄水を捧げたことにちなんで、当寺の山号を来迎山と名づけたと伝えられる。承応元年(1652)に再建。文化11年(1814)に堂宇を焼失したが、文政5年(1822)に再建された。

【天誅組志士・彦根藩士の菩提寺】
 宝泉寺は、鷲家口村で亡くなった天誅組志士及び彦根藩士の菩提寺である。
 元治元年9月24日に一周忌法要を行い、以降、年忌法要が営まれている。
 明治28年(1895)、古沢滋奈良県知事の主催により、宝泉寺において天誅組殉職難士33回忌法会が営まれた。
 大正元年(1912)、小川村・高見村主催により、宝泉寺において50回忌法要が営まれた。
 昭和17年(1942)には、小川村の宝泉寺及び高見村の龍泉寺において80年祭が営まれた。
 昭和37年(1962)には、東吉野村主催により、宝泉寺において100回遠忌法要が営まれた。


出店坂を駆け下り、碇屋へ斬り込んだ決死隊


宝泉寺前を通り「出店坂」という名の坂を下って行きます。先に記述したように、ここは決死隊の面々が碇屋へ斬り込む為に駆け下っていった坂です。

▼坂の途中にある石垣。川石で造られていて珍しいとのこと!
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

植村定七戦死の地。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

坂の途中には「天誅組志士植村定七先生戦死之地」と書かれた石碑が建っています。石碑の隣にある案内板には以下のように書かれていました。

第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

◆ 天誅組遺跡 ◆

文久3年旧9月24日宵、天誅組の前勢此処で彦根勢歩兵頭伊藤弥左衛門の一隊に遭遇、先頭を進んで来た天誅義士植村定七は弥左衛門と渡り合い之を討取った。此の時間髪を入れず飛来した敵の銃弾で定七も又無念の最期を遂げた。


植村定七は経歴も出身も不明の志士で、上村貞心の変名もあります。
碇屋に向けて先頭を走っていた植村は、行方を阻む彦根藩の伊藤弥左衛門を切り倒しますが、その後狙撃兵に撃たれてこの地で命を落としました。

▼出店坂を下から見上げたところ。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

▼一行は出店坂を下って碇屋を目指します。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

出店坂を下りきると右手に、当時彦根藩の脇本陣であった「碇屋(いかりや)」さんがあります。

▼碇屋(現「味の店 いかり屋」さん)
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

鷲家口の戦い(死地に入った天誅組の志士達)


「味の店 いかり屋」さんの前には、「天誅組志士那須信吾先生戦死之地」と書かれた石碑があります。
ここ鷲家口付近は当時、壮絶な戦闘が繰り広げられた場所ですので、戦死之地を示す石碑が至る所にあります。天誅組の志士達はこの地で次々と命を落としていったのです。

鷲家口の戦いについて、吉見良三著の『天誅組紀行』に当時の様子が生々しく書かれていたので転載しておきます。

「村人が見せられたのは、目をおおわずにはおれぬような凄惨な光景だった。表の通りは血の海で、戦死者の遺骸や遺棄された刀、槍、旗、陣羽織などがあちこちに転がっていた。彦根藩の陣所の福屋や碇屋の前には、彦根兵や地元の農兵が大勢手当を受けてうずくまっていた。戸板に仰向けに転がってうめいている者もあった。そのうちに彦根兵が討ち死にした天誅組隊士の衣服を剥いで所持品などを調べ、次々と首をかきとったのである。首は福屋(現東吉野村役場)の彦根本陣前に集めてさらされた。血まみれの遺体は、衣服を剥がれたまま街路に放っておかれた。……首のない遺体は山狩りがすむまで何日も道端に放っておかれたという。村人にとって酷だったのは、どの家もすべての戸障子を取り払えという追討軍命令だった。……いつどこからでも屋内を確認できるようにと家の中をあけっぴろげにさせ、夜も戸を立てることを許さなかった。」

那須信吾戦死の地。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

案内板には以下のように書かれています。

◆ 天誅組遺跡 ◆

文久3年旧9月24日宵、天誅組前勢の隊長那須信吾は碇屋前の彦根陣所を突破して四条屋儀兵宅前まで進み彦根勢の部将大館孫左衛門を手練の槍で討取るや直ぐに踵をかえして又碇屋前の敵弾に肉迫した。此の時碇屋の表格子の間から彦根藩士佐藤長三郎の銃が火を吹いた。信吾は之に槍を投げつけるなり大刀を引抜いて追ったが続く二弾三弾に信吾は満身血達磨となり此の附近で無念の最期を遂げた。


▼「味の店 いかり屋」さんの隣の建物。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

▼碇屋さんの道を挟んで反対側。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

この土地の現在の地名は「小川」となっていて「鷲家口」は旧名なのですが…、奈良交通のバス停にのみ現在も鷲家口の名前が残っています!

第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

那須信吾戦死地のすぐ近くに「天誅組志士山下佐吉先生戦死之地」の石碑があります。

山下佐吉(安田鉄蔵)戦死の地。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

石碑上の案内板の内容は以下の通りです。

◆ 天誅組遺跡 ◆

一 文久3年旧9月24日宵、天誅組前勢の隊長那須信吾は碇屋前の彦根陣所を突破して此処まで進んだとき、彦根の部将大館孫左衛門に遭遇、之を手練の槍で討取った。
二 同年9月26日夜、酒屋弥八郎宅前の明蔵に潜伏していた山下佐吉は彦根の巡羅卒に発見され此処まで走って彦根勢に取り囲まれ激戦の末戦死す。
元高取藩士本名安田鉄蔵(山下佐吉は変名なり)


▼旧鷲家口の町並み。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

▼少し歩いた先で、奈良交通のバスが先回りして待機してくれていました。
第12回古社寺を歩こう会「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」

「天誅組終焉の地・東吉野村を巡る」 その④へ続きます!!
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-2 Comments

カチャ-チャン says..."No title"
天誅組は今の奈良県民でも知っている人は少なくなりました、明治維新前の出来事なのでその後の明治維新に人気をさらわれた感じですね。
東吉野で起こった悲しい歴史の記録、もっとたくさんの人に知ってもらいたいものです・・・。
2013.07.21 08:13 | URL | #- [edit]
ヨシノ says..."No title"
●カチャ-チャンさん●

天誅組については私も以前までは全く(その存在さえも)知りませんでした。どんな事でも一番最初にはじめる…魁になる…ということは一番勇気がいる事だと思うのですが、
>明治維新前の出来事なのでその後の明治維新に人気をさらわれた感じ
確かにそんな感じになってしまっていますね^^;

>東吉野で起こった悲しい歴史の記録、もっとたくさんの人に知ってもらいたいものです・・・。
先月号の『月刊大和路ならら』も天誅組特集でしたし、今年はより多くの人が天誅組を知る機会になるのでは?と期待しています!
2013.09.05 16:51 | URL | #gquJYVHA [edit]

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